最初にアラスカに足を記したのは1985年のことで、フランスで開催された国際共同研究の会議に参加した時の寄港地であった。当時ヨーロッパに行くには、ロシア(当時はソ連)の上空は飛行出来なく、アラスカ経由の北極圏経由であった。日本からアンカレッジを経由してヨーロッパに向かうので、そのたびに現在時刻が変わることになり、今は一体何時だと頭の中は大いに混乱したものである。
機内食のメニューに「北極航路」と書いてあったのは感激した。また、アンカレジ空港では、日本式の「うどん屋」があり早速賞味したが、勿論美味しくはなかった。土産物屋に沢山いた婦人たちはほとんどが日本人のようで、機内から出てきた日本の女性週刊誌を争うように読んでいたのが印象的であった。
2008年のアメリカ変異原学会がアンカレッジであり、その時はシアトル経由であった。エスキモーが大きく機体に書かれた機体を見た時にアラスカに行くことが実感された。この学会には、タイの王女が同じホテルに宿泊されていた。このホテルの六階はそのご一行様で独占され、エレベータも五階止まりであった。王女は学会の冒頭に学会賞をいただくと、講演をして直ちに帰国されたようだ。町には結構いい料理屋も多く、私は好物の鮭料理を大いに堪能したものだ。
学会では途中で遠足もあり、大きな船で少し外洋に出て氷山を見た。初めは珍しかったが、何時までも氷山だけしかないので、飽きてしまった。その間東洋人以外は甲板でダンスに興じていた。この時に、私はマッキンレー(デナリ)を軽飛行機で超えるという機会に恵まれた。学会の合間に。Dr. Heddelから一人だけ空席があると誘われた。4人乗りのセスナ機だった。さすがに全米大陸一の高山で、どこまで飛んでも雪ばかりで、登山しているパーティーが眼下に見えた。
実は学会の後に、アラスカ鉄道の特等席に乗ってフェアバンクスまで行き、オーロラ見物をすることを予定していた。しかし、年度末ということで、切符やホテルを手配した後に、所長から学会が終わったらすぐ帰国するように厳命を受けた。週1本のアラスカ鉄道はキャンセルが効かず、泣く泣くオーロラ見物はあきらめた。その後私の人生でオーロラを見る機会は訪れていない。
極北の鉄道駅や雪残り 徹 (10/16/20)