続澁声徹語 第37回 「林 裕造先生」
林裕造先生とは、(財)食品薬品安全センター秦野研究所でしばらくの間、ご一緒させていただいた。先生は病理がご専門の医学者であったが、化学に強い方であった。また遺伝学にも興味をお持ちで、一風変わった病理屋という印象を受けた。ゼミなどで遺伝学をベースに議論させて戴いたことも懐かしい思い出だ。
先生は塩野義製薬から、今井 清さんと一緒にセンターに来られた。その前は小樽の公立病院の臨床医であったという。塩野義では名大後輩の牧野君(糖尿病マウスのNOD系統の樹立者)の上司だったようで、私のことを近藤先生の門下生なら信用できるとおっしゃってくださったのは、いささか戸惑ったものだ。
センターでの部署は異なっていたが、何かあると、よく遺伝の部屋に来られ、コーヒーを飲んで行かれた。また、ボクシングがとてもお好きで、テレビで試合がある夜など研究室に来られ、秦野駅まで送ってくださいとおっしゃたことが懐かしい。あの小柄な先生とボクシングはどうも似つかわしくないと思われた。
先生は、数年間センターに在籍されたが、請われて国立医薬品食品衛生研究所の病理部長として転出されてしまった。これ以降、センターは流れが変わって、、最後には0所長が出現して、一気に転落の道をたどることになった。何とか林先生をセンターに引き留めることはできなかったものかと悔やまれる。
先生の理論では、「制限給餌」と「活性酸素」とが面白かった。「制限給餌」の動物実験では、まだ装置がなかったので、女性職員が休日も出勤して、時間ごとに動物舎に入り、給餌していたことは懐かしい。「活性酸素」はその後、生物学の広い分野での大きな研究テーマとなり、一般にも喧伝される言葉となった。
私は、林先生からはほとんどお返しはしていただけなかった。「環境エピジェネティクス」に関するご返事が返ってくるだけであった。先生はとてもたばこが好きで、私が知る限り禁煙されなかった。病理学者で喫煙している研究者は今ではほとんどいない。先生は一昨年11月に亡くなられた。お亡くなりになる前に一度ゆっくりと先生とお話がしたかったものだ。
寒オリオンミクロトームの刃の冴えて 徹 (12/26/20)