この「澁声徹語」ではまだ「夏目漱石」のことは書いていなかった。どこかで書いたが、私が漱石の「坊ちゃん」を読んだのは、中学1年の夏休みだったと思う。「親譲りの無鉄砲で・・」で始まるこの短編を一気に読んだ記憶がある。感動した私はこの様に生きようと心に決めた。私のいささか硬直な一本気はこの時に出来上がったらしい。
「三四郎」は、九州の田舎の旧制高校を出て、帝大の文科へ入るらしい三四郎が長い列車の旅でさまざまな人に会い、簡単に感動したりする様子が面白い、同郷の先輩の「野々宮宗八」のモデルは寺田寅彦だとも言われているが、夜になると実験を開始するという、浮世離れした研究生活にあこがれた。特に何を研究しようとは決まっていなかったが、とにかく学者というものになりたいと思った。
「三四郎」で最もよく覚えているのは、上京のさなか、「広田先生」に会ったことである。先生は日本には誇るものは何もなく、富士山位なものだという件がある。またこれからの日本はどうなるでしょうかと先生に聞くと「滅びるね」とこともなげに言ったところである。当時の日本で漱石が広田先生にこの言葉を言わせたことは漱石のすごさだと思う。私はこれ以後の漱石の作品は「虞美人草」をゆっくり読んだくらいで、「明暗」「こころ」などがあるがあまり好きではない。
漱石は再三湯河原にも来たらしく、定宿は「天野屋旅館」で、赤い橋がまだ残っていたが、大分前に廃業してしまった。今ではここの別館が「湯河原町立美術館」となっており、その一部が「平松礼二館」として、平松画伯の絵を常に展示している。もともとは旅館だっただけに、構造が複雑で美術館には適していない。この赤い橋は湯河原にいた「安井曽太郎」も「平松礼二」画伯も書いている。
当時はまだ東海道線はまだ走っていないので、国府津まで来て、トロッコの様な人車鉄道に乗って湯河原に来たらしい。この人車鉄道は、後になって芥川龍之介が「トロッコ」で書いたものと思われる。この話は芥川に友人の力石某が話したものが下敷きになっているらしく、今でも近くの万事屋にその子孫がおり、店にはこの由来が書かれている。ちなみに龍之介は漱石の弟子であった。
本郷に通り雨あり漱石忌 徹 (03/06/21)