その後Bill先生の配慮でORNLを訪問することが出来、あげくはお二人の自宅にまでお邪魔して、学会前にご夫妻で旅行されたアラスカのスライドを缶ビール片手に拝見するという光栄に浴しました。もっとも昼間のラボツアーに疲れた私はうつらうつらの状態でした、振り返れば、海外留学の機会がなかった私にとって、この3日間が唯一の海外留学体験でした。
Bill Russell先生は哺乳類放射線遺伝学の大御所で、アメリカは核戦略の重要な資料として必要なヒトの放射線影響に関する基礎研究のほとんどをBill 先生に託したという経緯がありました。その時Billはまだ37歳でMaine 洲のJackson 研究所でマウス遺伝学の研究をしていました。私もこの研究所には2度訪問し、Bill先生の前妻のMargaret Russell (マウス遺伝学者で血液学の権威)の講演を拝聴したことがあります。
Bill先生は多くの当時の著明な遺伝学者からの意見を聴取した後に、ヒトへの放射線影響の基礎資料を「マウス特定座位試験」によって集積することを決断しました。「マウス特定座位試験」は、哺乳類の雌雄いずれの生殖細胞でのさまざまな発達時期において実験することが出来ます。私はそれをさまざまな発生段階のPGCについて実施した訳です。Billは膨大な研究費を用いて、「マウス特定座位試験」を、雌雄の成体マウスの生殖細胞の様々な発達時期に実施し、多くの貴重なデータを集積しました。彼は当時のアメリカの放射線影響に関する生物学関係の研究費の1/3を使用していたと言われています。その研究は「メガマウス研究」と称され、実験には延べ300万匹のマウスの子孫を観察しました。訪問した時に動物室の一部を見せてくれましたが、それはまるで巨大な「マウス工場」といった感じでした。
これらの一連の研究から、Billらはマウス雌雄の様々な発達段階での放射線感受性の詳細な解析を行い、放射線影響に関する、多くの貴重なデータを蓄積しました。その中でも特筆されるべき成果は、卵母細胞や精祖細胞への放射線の分割照射によって、「線量率効果」を発見したことです。「線量率効果」とは、一定の総量が同じ放射線を一度に照射するのと分割して照射した場合では、照射した合計線量は同じでも、得られる誘発突然変異の結果が異なることです。これまでショウジョウバエでの各種の放射線照射の実験では、この「線量率効果」が認められませんでした。
しかし、マウスの実験では、一部の生殖細胞の時期において、「線量率効果」が明確に認められました。当然、ショウジョウバエの実験から得られたヒトへの放射線影響の推定は、哺乳類のマウスの結果によって推定されることに変更され、ヒトへの放射線影響リスク評価は、大きな変更を余儀なくされました。これはマウスなどの哺乳類のある時期の生殖細胞が持っている強い「DNA修復能」によるものであり、哺乳類はショウジョウバエよりも強い修復能を持っていることが証明されたことになります。このような世界的にも優れた業績を持っているBillではなく、まったく世界的には無名の私が、PGCの実験では先に陽性の成果を出したのは、まったくの僥倖であり、まさにビギナーズラックであり、これが研究の醍醐味だと思います(13,14)。
関連文献
13.Shibuya T., Murota T., Horiya., N. Matsuda Y., and Hara T. : The induction of recessive mutations in mouse primordial germ cells with N-ethyl-N-nitrosourea. Mutation Res. 290, 235-240, 1993
14.Shibuya T., Horiya N., Matsuda Y., Sakamoto, K., and T. Hara : Dose-dependent induction of recessive mutations with N-ethyl-N-nitrosourea in primordial germ cells in mice. Mutation Res. 357, 219-224. 1996.