エピジェネティクス(EG)という言葉を最初に使ったのは、エディンバラ大学のC.H.Waddingtonで今から約80年前の1942年の事で、比較的最近の出来事です。彼は動物の遺伝学と発生学の両方の研究者で、両者を結びつけるために、「エピジェネティクス」という、生物学に全く新しい概念を提唱し、「生物の発生とは多くの遺伝子の統合された発現全体の結果である」と考えました。この時は、まだ遺伝子の実体は知られていませんでした。WatsonとCrickによるDNA構造の決定は1953年のことです。Waddingtonは、動物が受精卵から細胞分裂と細胞分化を繰り返しながら完全な個体へと発生する現象を、”Epigenetic Landscape”(EG的風景)として描きました。これは、山ひだに沿ってボールが山頂から転がり落ちてゆくという図でした(図1)。さらに、その次のページには、それぞれの遺伝子と思われる杭が綱で結ばれ、その張り方が杭ごとに異なっており、それによって山ひだが作られている図も示しました。遺伝子の本体がまだ不明だった当時としては、まさに卓見でした。ちなみに2012 年にSir Gordonと共にノーベル賞を受賞された山中伸弥先生のiPS細胞は、一番下まで落ち分化しきったヒトの皮膚細胞に、4つの遺伝子を導入し、再び頂上にまで引き上げたことになります(図2)。その後、多くの研究者によって、エピジェネティクスはさまざまに定義されてきました。現在は、「遺伝子の変異を伴わず、生体内あるいは外部環境の変化によって、DNAのメチル化およびそれを取り巻いてクロマチンを作っているヒストンのさまざまな化学修飾、さらにさまざまな小非コードRNAが変化することで、遺伝子の発現が高度に調節されている現象」という定義が一般的です。
遺伝子がそれぞれのタンパク質を作り出し、個体発生および生命の維持をしていることはすでに説明しましたが、重要なことは、遺伝子はいつも同じように働いて、一定量のタンパク質を作っているわけではないということです。特殊な機能を持つようになった細胞(分化した細胞)では、少数の特定のタンパク質だけを合成としており、他のほとんどの遺伝子は活動を休止しているのです。生物の発生過程においても、多数の遺伝子を必要な時期に発現し、さまざまなタンパク質をそれぞれの発生時期において正確な量を合成しています。このことを連続的に行い、一個の完成された個体が作られてゆくのです。そのために、多数の遺伝子は高度に精密に調節されており、働いたり、休んだりしているのです。生物が持っているこの高度な遺伝子調節機構である「エピジェネティクス」のシステムには驚くばかりです。しかし、その全体像はまだまだ解明されてはいません。最近、この重要な問題について、武部貴則(東京医科歯大)らは、iPS細胞から形成された前腸と中腸の集合体を融合させると、肝臓や脾臓および膵臓などの原基が形成されることが証明しました。そして、それに伴って発現する遺伝子群も徐々に分かってきました。しかし、生物個体全体の発生に関してはまだまだ未知な部分が多く、残念ながらそれらの解明にはまだほど遠い状態だと言えます。
1953年のワトソンとクリックのDNA構造の発見以来、遺伝学の主流は、「構造分子遺伝学」となり、遺伝現象に関係するタンパク質やそれを合成する遺伝子の構造について、分子レベルで解析する研究が主流となりました。しかし、繰り返しになりますが、遺伝学において大事なことは、遺伝子は常に働いているのではなく、「多くの遺伝子の“オン・オフ”」によって、個体の発生が進められてゆきます。また成体でも、適切な遺伝子調節によってその個体の生命が維持されているのです。この「オン・オフ」の仕組みを司っているのが、「エピジェネティクス」なのです。楽譜にたとえれば、遺伝子は音符にすぎなくて、エピジェネテックスは、それをとりまく強弱や停止記号などのさまざまな音楽記号で、これらが加わって初めて音楽として聞くことが出来るのです。
私たち成人が、健康で日常生活を送っているのも、この「エピジェネティクス」が正しく働いているからなのです。そして、ヒトを取り巻くさまざまな環境が変化すれば、「エピジェネティクス」がかく乱され、さまざまな疾患になるものと考えられます。つまり、私達の「健康と疾患」とのカギを握っているのは「エピジェネティクス」だと言っても過言ではありません。突然変異などで受け継がれてきた遺伝子も、それを働かなくなれば、そのヒトは健康に暮らしてゆけることが出来るかも知れません。ヒトの健康は遺伝子そのものによって決定されているのではなく、さまざまな内部および外部環境からの影響によって、遺伝子の発現が変動していることが問題なのです。すなわち、ヒトの健康と病気は、遺伝子と環境との相互作用によって決められ、そのため「エピジェネティクス」が大変重要なカギをにぎっているのです。健康と疾患においては、ヒトの環境問題が非常に大きいものと考えられています。
がん、代謝疾患、精神・神経疾患などのさまざまな疾患は、「環境エピジェネティクス」の異常によって発症するものと考えられます。環境因子としては、これまでヒトが長い進化の過程で遭遇したことがない、新規化学物質、人工放射線さらには極端な栄養状態などが環境要因として考えられています。ヒトはその種の成立以来、おそらくは常に飢餓に状態にあったものと考えらます。そこで、常に飢餓に備えて食物を貯めこむ習性をもっていました。それが今日の食物が常に豊富にあるような状況では、2型糖尿病を始めとする、さまざまな代謝疾患を容易に発症するようになりました。また親や社会から今の子供たちが受けているさまざまなストレスによるうつ病や統合失調症、認知症などのさまざまな精神神経疾患の多くも、近年のストレス社会を反映して、その頻度が上昇しているものと考えられます。すなわち、これらのさまざまな疾患は、「環境エピジェネティクス」によるものと言っても過言ではないのです。
繰り返しになりますが、生物は多細胞生物に進化した際に、遺伝子の構造はそのままでも、さまざまな環境の変化に対応して、遺伝子の働きを高度に調節できる仕組みを獲得したものと考えられます。すなわち遺伝子の働きは、遺伝子の配列によって絶対的に決定されているのではなく、その個体を取り巻くさまざまな「環境因子」に柔軟に対応できるようになっています。これが「エピジェネティクス」であり、またそれによって、たった一細胞の受精卵から、多様に分化した細胞・組織・器官からなる個体を生成することが出来るのです。
地球上の生物は長い進化の過程で、さまざまな過酷な地球環境に遭遇しながら生き抜いてきて、今日に見る生物の様に素晴らしい進化を遂げてきました。ウィルスなどの病原体については、さまざまな生物に書き込まれている遺伝子構造、たとえばトランスポゾン(動く遺伝子)などがゲノムに取り込まれているなどのことは、その闘争の歴史を物語っています。近年の新型コロナウィルス感染を考えても、ヒトのゲノムには、すでに多くのウィルスの遺伝子の痕跡が存在しています。すなわち、これまでのすざましい生物種間の生存競争の歴史をそのゲノムに刻みこまれているのです。すなわち、この事実は生命の最初の発生から長い進化を経てヒトに進化するまでの約38億年の間に、さまざまな種間における、生存競争にも勝ち残ってきた証拠です。驚くべきことには、哺乳類の胎盤は、これらのウィルスの遺伝子を素材にして作られたと言われています。哺乳類は胎盤によって、胎児を外敵から保護することが出来、恐竜が滅した後の地球上で、最後にはヒトにまで進化し、現在の地球上で栄華を誇っています。この成果は石野ご夫妻を中心とした、日本人研究者の誇らしい研究成果です。ヒトとウィルスは一見敵対するもののように思われますが、長い年月にわたって考えれば共存してきていると言えるのです。また、「エピジェネティクス」の変動は、成人に比べて生殖細胞形成期や胎児期に容易に起きることは、前に述べた 「エピジェネティクス風景」”からも明らかでしょう。最近では、生物の祖先世代における環境からの影響によって、後世代に生殖細胞におけるエピジェネティックな変化が伝達され、その環境にさらされていない世代においても、何らかの影響がみられることが分かってきました。この現象はヒトでも疫学によって認められつつあり、これによってさまざまな疾患が誘発されることが解析されつつあります。この現象は、これまでの生物学や毒性学の常識を覆すもので、この現象は「継世代エピジェネティック遺伝:ETI」と呼ばれており、「生物学および毒性学のパラダイムシフト」と言っていいものと思います。今後TEI1は、臨床医学においても重大な問題となることが考えられます。これも、エピジェネティクスの取り扱う問題の一つです。